コケた

人の死因には色々ある。
私が将来どのように死ぬのかなんて神のみぞ知ることなのだけれど、どうも思いっきり間抜けでドンくさい死に方をしてしまうような気がする。

床の絨毯に引っかかるのとか、ベッドの角にふとももをぶつけて青あざをつくるとか、窓(内開き)を開けたままトイレ掃除をしていて窓を開けていたのを忘れてうっかり立ち上がって頭にたんこぶを作るとかは日常茶飯事だ。
去年の年末には、寝起きでキッチンに行こうとして、廊下とキッチンを遮っているドアが閉まっているのに気がつかず、強化ガラスにガッゴーッンと頭突きをかましてしまった。目から火花が飛んだのは当然として、直後にたんこぶじゃなくって鼻血がつつーっと出てきたときには、「あー、こりゃ脳出血で死んでしまうかもな」、と心配になったものだ。


昨日の午後、駅の出口で思いっきりコケた。
足元をよく見ないで歩いていたから、地面に固定してあった車止めの金具につまづいて、
「あっ」
っと思ったときにはもう体勢を立て直すのには遅すぎた。
あとは膝からこけるか、手を前について体重を支えるか、そのまま何もしないで地面に転がるかくらいしか選択肢がない。
こういう判断を瞬時に行うのには私はノロノロさんすぎるので、危機を感じた私の脳と身体が私の心をすっ飛ばして、多分コンマ01秒くらいの間に勝手に「これはあまり無理に身体をこわばらせない方がよかろう」ということを決定したようだ。

で、コケた。

なんちゅうか、まるで不器用なペンギンがつまづいた時のように、胸とお腹から着地する形で、ちょっとじゃりじゃりのコンクリート面上を、「ズザッ」と音を立てて、コケた。
コケる時、手は心持ち前方に軽くついていたから、コケ運動が完了した後の私の姿は、
はたから見たら、バントして一塁ベースにヘッドスライディングした野球選手のようであっただろう。

そのままの姿勢で1.5秒ほどが経過した。
みっともないし情けないからなんとか立ち上がりたかったのだけれど、何しろ両手バンザイ状態で地面に転がっていたものだから、すぐに身体を起こすことができない。

その間、
「私がコケたことを見ていた人は結構いるはずだから、誰か助けてくれないかな」
「いや、でもみんな忙しそうに歩いてたし、無視されるかな」
「そんでもってナポリ(※)みたいに身体の上をまたいで行ってしまわれるかも。」
「それってあまりに非人間的で哀しすぎるよね。」
「まぁ、そうなってもめげずに自力で立ち上がって家に帰ろう。」
「それはそうと、服が擦れて破れたりしてないかな。」
「パンツの膝小僧がズル剥けで血が滲んでたりしたらイヤだな。」
などなど様々な思いが(相変わらずバンザイスタイルで地面にうつぶせに転がっている私の中を)去来した。

「大丈夫ですか?」「怪我をしたのでは?」と、近くにいた人々に助け起こされたのはその直後のことだ。

「だ、大丈夫です。怪我はありません。えっと、ちょっと驚いてビックリしただけです。どうもありがとう。」
支えられながら起き上がり、動揺しつつもやっとそう言うと、人々は
「それはよかった!」
とでも言うように私の目を見つめながら大きくにっこり微笑んで、私がしっかりと立ち上がったのを見届けてから、再びそれぞれの目的地へと歩み去っていったのだった。


バス停の待合室でそっと確認すると、洋服はちょっと汚れていただけで、どこも破れたり擦り切れたりしたところはなく、身体のほうは膝小僧と両手の平に軽い擦り傷があるだけだった。
寒かった(日中でも氷点に近かった)から、超モコモコの厚着にしていたのが幸いしたのだろう。
こういうところは妙にラッキーな私である。


きのう助けてくれた人たち、
名前も知らないし、多分また再び会うことはないでしょうけれど、貴方たちは昨日における私の天使でした。
どうもありがとう。




 ※数ヶ月前、犯罪組織同士の抗争からナポリの街中で射殺され横たわっていた男性の死体の上を通行人がまたいで歩いてゆく映像がニュースで流れ、イタリア中で争論となった、ということがあったのだ。